細田守はジブリでハウルの監督をする予定だった?宮崎駿からの手紙の真相

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日本を代表するアニメーター・アニメ監督である、細田守さん。

「時をかける少女」、「サマーウォーズ」、「おおかみこどもの雨と雪」、「バケモノの子」などのヒット作で有名ですね^^

 

「時をかける少女」は興行収入2.6億円を記録し、長期間ヒットしましたね。国内外でも高く評価されました。

「サマーウォーズ」は興行収入16.5億円と、こちらもヒットと国内外での評価を記録。

「おおかみこどもの雨と雪」は、映画は観客動員約340万人、興行収入42億円を挙げ、2012年の年間興行収入ランキング第6位でした。

「バケモノの子」も、累計興行収入が51億円を突破しています!

 

このように公開する映画が次々にヒットする細田監督ですが、実はジブリとも関わりがあるようです。

 

今回は、そんな細田監督とスタジオジブリの関係性について深掘りしたいと思います。

細田守はジブリ入社を希望していた

現在は独立して様々な作品を制作している細田監督ですが、若かりし頃はスタジオジブリで働きたかったのだとか。

 

なぜ細田監督はジブリに入社したかったのか。どういう結果に至ったのか。

ここでは、その理由と経過についてみたいと思います。

 

細田監督がスタジオジブリを目指したのは、

学生の頃に、宮崎駿監督の映画初監督作品である「ルパン三世 カリオストロの城」を観て、感動したことが大きな理由です。

このことがきっかけで、スタジオジブリに入りたいと思ったそうです。

 

細田監督は大学卒業後にスタジオジブリの研修生採用試験に挑戦しました。

しかし最終選考まで残った末に落選をしてしまいました。

 

ちなみにこの年、スタジオジブリは「動画研修生制度」を新設しました。

体系的に学ぶことができるので、アニメーターとしてはこの上ない環境であったでしょう。

仮に細田監督が採用されていたら、どうなっていたのでしょうね…

 

スタジオジブリの研修生採用試験に不採用となってしまった細田監督は、映画「少年ケニヤ」で関わりのあった田宮武プロデューサーに東映動画、つまり現在の東映アニメーションを勧められて、1991年にアニメーターとして東映に入社しました。

 

山下高明さんのもとで経験を積み、OVA「Crying フリーマン5 戦場の鬼子母神」では初の原画、アニメ映画「Coo 遠い海から来たクー」では作画監督補佐を担当。

 

細田監督は高校1年の時に、東映動画が制作した映画「少年ケニヤ」(1984年公開・大林宣彦監督)のアニメーターの公募で、自主制作アニメを応募して、公募に合格しました。

 

細田守はハウルの動く城の監督をする予定だった?

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その後、着実に活躍するようになった細田監督は、「ハウルの動く城」の監督に要請されます。

2000年8月に、東映アニメーションからスタジオジブリに出向して、本格的に映画の製作に取り組みました。

 

この時、スタジオジブリは「千と千尋の神隠し」の製作に追われていたので、

細田監督の「ハウルの動く城」に割ける人員がいなかったため、監督は自らスタッフのもとに頼みに回ったそうです。

 

絵コンテはCパートまで完成しましたが、ジブリとの意見の衝突、スケジュールの延期、スタッフの拘束など様々なトラブルが立て続けに起こり、製作は行き詰まりました。

 

2002年4月には制作中止が決定し、高橋望プロデューサーから「ハウルの動く城」の監督の降板を宣告されました。

こうして「ハウルの動く城」の監督から外されて、ジブリを離れます。

 

後に監督を務めた宮﨑駿さんは「ハウルの動く城」について、

 

『当時は少女の心の動きを描くことができるスタッフがいなかったのだ』

 

辛辣な言葉を残しています。

 

宮﨑駿が細田守に送った手紙の真相

 

細田監督はスタジオジブリの研修生採用試験を不採用になりました。

その時に細田監督が宮﨑監督から手紙のもらったことは有名な話ですね。

 

手紙の内容はというと、

「君のような人間を(ジブリに)入れると、かえって君の才能を削ぐと考えて、入れるのをやめた」

と、書いてあったそうです。

 

この手紙を受け取った細田監督は、

「雑用係でもいいから入れてください」とスタジオジブリに電話をすると、

 

ジブリ側から、

 

「今回の試験で宮崎さんが手紙を出したのは、全受験者中二人しかいない。その一人が君で、これは光栄なことだから、おとなしく諦めなさい」

 

と、言われたそうです。

 

実はジブリの試験方法の中には、絵を2枚以上描いて提出するという一次試験があります。

この試験で、細田監督は150枚以上の絵を描いて提出しました!

 

なるほど、これだけの熱量を持った人物であれば、自分のもとに置いておくかどうかは悩ましいですね。

宮崎監督があえて不採用にしたのには、このような理由があったからなんですね。

 

まとめ

いかがでしたでしょうか。

 

まとめますと、

・細田監督は「ルパン三世 カリオストロの城」を観て、そのアニメーションの世界観に惹かれ、感動したのでジブリを志した。

・当初は「ハウルの動く城」の監督でしたが、ジブリの事情と折り合いがつかなかったことで監督を降板した。

・宮崎監督の手紙の真相は、細田監督の才能を考慮して、不採用にした。

 

最後までお読みいただいて、ありがとうございました。

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