日本を代表する小説家の1人である、芥川龍之介。
「羅生門」、「鼻」、「地獄変」、「河童」などなど…発表した数々の名作は、時代を超えてなお人々に読まれ続けています。
では、そのような数々の名作を執筆した芥川龍之介は、実際のところはどのような人物だったのでしょうか?
今回は芥川龍之介について掘り下げていきたいと思います^^
芥川龍之介について
芥川龍之介は、日本の小説家です。
彼は1892年(明治25年)3月1日に生まれ、1927年(昭和2年)7月24日に命を絶ちました。わずか35歳でこの世を去ったのです。
彼は1915年に、「羅生門」を「帝国文学」に発表すると、級友である松岡譲の紹介の紹介を経て夏目漱石の門下に入りました。
1916年には「鼻」を発表します。なんと夏目漱石がこの作品を高く評価したそうです!
この時、芥川は海軍学校の英語教師を勤めながら作品の執筆に取り組み、1917年には短編集の「羅生門」を発表しました。
1921年、彼は中国の北京を訪れますが、この頃から病気がちになっていき神経衰弱、腸カタルを患いました。
翌年の1922年には「藪の中」を、晩年の1927年には「河童」、「歯車」を発表し、現代に残り続ける数々の名作を執筆しました。
しかし同年(1927年)の7月24日に、大量の睡眠薬を服用して自殺して、35歳という短い生涯を終えました。
芥川龍之介の人柄と性格について
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晩期の芥川は厭世的思考が目立ち、それが自殺に繋がったとも考えられます。
ではこの厭世的思考のルーツはどこにあるのでしょうか。
実はこの厭世的な思考は、子供時代からうっすらと見られたのだとか。
実際に、死への憧れを思わせるような言動があったそうです。
「みんなが憧れている芥川龍之介は、こんなに汚くて心が穢れているんだ」とも発言したそうです。
このように芥川は、厭世的・卑屈といったマイナス思考の持ち主でした。
一方で、作家仲間からの芥川が人前でよく快活としていたエピソード、子供には優しく接していた一面もあるようです。
人間なら誰しも明るい面と暗い面を持っています。
芥川も同様に、快活な面と厭世的一面を持ち合わせている人間だったようです。
芥川龍之介の生い立ち
芥川は、牛乳製造販売業をする父の新原敏三と母のフクとの間に生まれました。長男でした。
2人いた姉のうち、長姉は彼が生まれる前に6歳で病死してしまったようです。
彼の生後7ヵ月後の時になると、母親のフクの病状が悪化しました。
そのため母の実家である芥川家に引き取られて、伯母のフキに育てられました。
伯母のフキは芥川を大切に育てる人だったようです。
芥川も「文学好きの家庭から」で人生を振り返った時に、「伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出来たかどうかわかりません」と発言しています。
11歳の時に母が亡くなると、芥川の引き取り先をどうするかで父方の新原家と母方の芥川家は揉めました。
というのも、彼の父親の新原敏三は女性にだらしなく、フクの妹に手を出して子供ができてしまったからです。
芥川家からしたら当然そのようなモラルに欠ける人に龍之介を預けるという選択肢はなかったはずです。
最終的に芥川は叔父の芥川道章の養子となりますが、そこに至るまでには、新原家と芥川家の間でドロ沼戦があったようです。
芥川は子供時代を複雑な家庭環境で過ごしたのです。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
まとめると、
・芥川は、子供時代を伯母のフキのもとで過ごした
・性格は厭世的な側面と優しくて活発な側面の両面を持っている
・養子に出されたり、父方と母方の間で引き取り先問題が深刻化するなど、複雑な家庭環境で子供時代を過ごした
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました!
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