日本を代表する作家の1人である宮沢賢治さん。
代表作である「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」は、読書好きの子供ならの1度は読んだことがあるでしょうし、
「雨ニモマケズ」は国語の教科書に載っているので、宮沢作品を読んだことはなくても触れたことがある方も多いでしょう。
では、宮沢賢治さんはいったいどのような人物なのでしょうか?
今回は、宮沢賢治さんの人柄と性格、経歴と生い立ちについて深掘りしていきたいと思います^^
宮沢賢治について
宮沢 賢治さんは詩人であり、童話作家です。
※本名の場合は、表記が“沢”ではなく“澤”。
1896年8月27日に生まれ、1933年9月21日に亡くなりました。享年は37歳です。
代表作には「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」、「雨ニモマケズ」があり、有名な児童文学から教科書に選定されている作品まで幅広い作品を書いています。なので、今でも宮沢さんの作品を読んで育った子供が多いのではないでしょうか。
そんな宮沢さんですが、生前は作品が世間的に評価されることはなく、一般の人々にはほとんど知られていなかったようです。
彼の没後に詩人である草野心平さんが作品の紹介に努めたことで、無名だった宮沢さんは一躍有名になり世間一般に認知されるようになりました。
それからというもの、執筆した数々の作品は急速に読者の人気や批評家の支持を獲得して、現在では日本を代表する作家と評価されるまでになりました。
ちなみに普及に努めた草野さんは生前に1度もあったことがないそうです。
宮沢賢治の人柄と性格
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宮沢賢治さんは、優しく、真面目すぎて頑なな性格だったと言われています。
優しいと言われている由縁は、幼少期のエピソードが大きく絡んでおり、
1.小学校時代に赤いシャツを着た同級生がからかわれていた時に、「おれも赤シャツ着てくるからいじめるならおれをいじめてくれ」と言って庇ったから。
2.指を馬車にひかれて出血した遊び仲間に「いたかべ、いたかべ」と言いながらその指を吸って止血しようとしたから。
3.罰で水を一杯にした茶碗を持って廊下に立たされていた生徒が、辛そうにしているのを見て、負担を減らすためにその水を飲んであげたそうです。
などのエピソードがあります。
なお、これらの話は真偽が不明なので参考程度にとどめた方がよいと思われます。
といいますのも、宮沢さんの父親と弟が、賢治さんのことを誇らしく思っているせいか誇張気味に周囲に話していたからで、これらはその1部だからです。
頑なと言われるのは、宮沢さんの菜食主義にあります。
宮沢さんは子供のころから菜食を好み、法華経を信仰してから5年間もの菜食生活を続けています。さらに、その食生活はエスカレートして、冬場は凍ったごはんをそのまま食べたり、おかずも油揚げ、漬物など質素なものに限っていました。
そのような生活を続けて病気になった際も、母親や弟が説得を試みたり、ちゃんとした食事を差し入れをしても断ったそうです。しまいには病室で「生き物の命をとるくらいならおれは死んだほうがいい」、「これからは決してそんなことをしてくれるな」と発言したそうです。
宮沢賢治の生い立ち
宮沢賢治さんは“法華経(仏教)”と“農民”に基づいた思想が作風の根底にあると言われています。
それもそのはずで、宮沢さんは幼少期に、凶作や飢饉が多々ある環境で育ちました。凶作や飢饉に屈しない農民の方々の力強い生き方を目の当たりにしているのです。おそらく幼少期にこのような生き様を目にすると強烈な印象に残ったのではないでしょうか。これが宮沢さんの作風に影響を与えたのではと思われます。
さらに、決定的なターニングポイントになったのが法華経の存在です。中学時代に法華経を読んだ宮沢さんは、その内容にとても感銘を受け、以後法華経に夢中になったそうです。
信仰心は過熱していき、1920年には法華経が根本経典である日蓮宗の信仰団体に入会します。
そこで宗教と芸術の統合について助言をされたので、法華経の考え方や教えを作品に反映させるようになりました。
宮沢賢治の経歴
以下に宮沢さんの経歴をまとめましたので、ご覧下さい。
1896年 父・政次郎、母・イチのもとに生まれる。
1903年 花巻川口尋常高等小学校に入学。
1909年 岩手県立盛岡中学校(現・盛岡第一高等学校)に入学した。
1914年 盛岡中学校を卒業。この年に法華経に感銘を受ける。
1915年 盛岡高等農林学校(現・岩手大学農学部)に首席で進学。法華経に没頭する。
1916年 農学第2部(農芸化学専攻)で唯一特待生に選ばれて、授業料免除になった。
1917年 保阪嘉内らと同人誌「アザリア」を創刊した。誌上で短歌などを発表。
1922年 雑誌「愛国婦人」、「雪渡り」発表。
1924年 詩集「春と修羅」を自費出版。 童話集「注文の多い料理店」を発表する。
1925年 詩人の草野心平が主宰する同人誌「銅鑼」に参加して、作品を発表する。
1930年 「雨ニモマケズ」を発表する。
1932年 「グスコーブドリの伝記」を発表する。
1933年 急性肺炎で死亡。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
まとめると、
・生前は評価されず、没後に評価されて、国民的作家になった。
・宮沢さんの性格は、優しく真面目、でも頑ななこともある。
・作品の思想の根底には、農民と法華経があり、しばしば作品に反映されている。
最後までお読みいただいた方、ありがとうございました。
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